幼友達

おとといの夜、母から電話があり、Mちゃんのお父さんが亡くなった、と聞いた。
Mちゃんは小学生の頃からの幼友達。

わたしにとって幼友達はMちゃんとKWちゃんのふたり。
小学・中学と一緒に片道30分の通学した仲。学校から帰ってきてから、れんげ摘みに行ったり、木登りしたり、塀よじ登ったり、鬼ごっこしたり、自転車で駄菓子屋まわりしたり。家が近いという理由だけで、仲が良い。
高校が別々になって以来、そんなに交流があるわけではないのだけど、結婚式や同窓会やなんかの折に会っても、全然会っていなかったブランクは感じることなく、「Mちゃーん」「KWちゃーん」「CNちゃーん」と呼び合って、そのたび幼友達の絆の深さを感じる。

そして、「友人」はこれから先も作れるけど、「幼友達」は作れないことを考えると、わたしにとってMちゃん・KWちゃんは、すごい大切なものであることを思って、誰彼かまわず自慢したくなる。

わたしは、ふたりも幼友達がいるんだよ!って。

Mちゃんとの久々の再会は、そのお父さんのお葬式の席。
すごく悲しい再会だったけど、わたしは幼友達パワーを感じる。
これ、何年も会っていないけど「友達」のお父さんが亡くなったからお葬式に行く、っていうのだったら、お葬式につきものの「義理」が90%を占めたと思う。
でも、幼友達って特別なつながりだからこそ、「義理」なんて気持ちはまったくなかった。
わたしたちは小さい頃に、たくさんお思い出を共有していて、そこには、わたしたちのほかに、お父さんやお母さんもつながっていて、そういうの場面を思い出すたびに、その場面、景色は不変だと思ってしまう。
今回、その不変であるはずの景色から、Mちゃんのお父さんがいなくなってしまうのは、わたしにもとてもショックで辛かった。
いままで、KWちゃん、Mちゃんが結婚したり子供が出来たりの時にも、「不変じゃないわ」と嘆いていたけど、でもそれは、幸せがプラスされていくことだから受け入れられたんだね。
今回、初めての「欠ける」経験。
わたしが、こんなにショックなんだから、Mちゃんはもっともっと、表現できないほどに悲しい思いをしているはず。
でもね、幼友達がそこにいるだけで、Mちゃんの悲しみをほんの少しだけでもやわらげられるかもしれない。
やわらげられたと思う。それが、幼友達パワーだって考えるのは勝手すぎる?

お葬式で、人は何を想って合掌するんだろう?
わたしは、場違いなのかもしれないけど、Mちゃんのお父さんの死顔にお花を手向けた後、わたしたちが幼友達になれたことの感謝と、ここにいる人たちが幸せになれるよう向こうに行った時に仏様に頼んでくださいって都合のよいお願いをしながら合掌してしまった。

Mちゃんのお父さんは笑ってたよ。

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